ARNYS Forestière ― Appointment Only
1837年、パリに蹄の音を響かせた馬具工房としてその歴史の幕を開けた"HERMÉS(エルメス)"。
同メゾンのクリエイションの根底に強固に打ち込まれているのは、単なる視覚的な装飾性や富の誇示ではありません。彼らが衣服というジャンルにおいて最も重きを置くのは、着用者の骨格、筋肉の躍動に耐えうる「物理的な必然性」です。
1990年代初頭、ファッション界がグランジや脱構築といった前衛的なアプローチに傾倒し、衣服の構造を破壊していくトレンドの中にあって、エルメスはそれに抗うかのように、常に人体を覆う堅牢な建築物としてプロダクトを設計し続けました。
本個体は、そのエルメスの実用主義的な哲学と、極めて高度な美学が完璧な均衡を保った歴史の転換点に位置する一着です。
1988年よりメンズウェアの舵取りを任されたVéronique Nichianian(ヴェロニク・ニシャニアン)。
彼女の引くパターンの線には、用途を持たない切り替えや、人体構造を無視したディテールは一切存在しません。
1993年という時代は、1980年代を席巻した硬い芯地と厚い肩パッドによる「構築的なパワースーツ」への反動から、メンズウェアがルーズなシルエットへと大きく舵を切る過渡期にありました。しかし、彼女は単に生地を薄くして緩さを表現するような安易な手法は採りませんでした。
エルメスの長い歴史の中でも極めて稀有な「ノーカラー仕様」を採用した本作は、テーラードジャケットが歴史的に持ち合わせてきた「男性性の権威」を解体し、装いにおける新たな自由度を獲得するために設計されたものなのです。
本作は、テーラードジャケットの堅牢な身頃の構造を保ちながら、衣服の顔である「襟」という要素を完全に削ぎ落としています。
この構造が装いにおいて実現しているのは、首元における「レイヤードの視覚的解放と再定義」です。
通常のテーラードジャケットにおいて、上襟と下襟はVゾーンを構築し、ネクタイやシャツの襟を額縁のように閉じ込める権威的な枠組みとして機能します。しかし、ニシャニアンはこの襟周りの起伏を物理的に切除することで、首元から胸元にかけて広大なネガティブ・スペースを創出しました。この計算された空白は、インナーに合わせる衣服の首元のディテール——例えば、クルーネックのカットソーの柔らかな曲線、シルクスカーフが描く有機的なドレープ、あるいはバンドカラーシャツの無機質な直線——と一切干渉しません。
ジャケットの襟という「視覚的な障害物」が消失することで、インナーの立体感や素材感が100%引き出され、装い全体に階層的な奥行きが生まれるのです。さらに、首周りに生地が密集しないため視線が縦に抜け、着用者の首が長く、顔周りがすっきりと見えるという人体構造上の錯覚までも物理的に誘発します。
特筆すべきは、肩周りの構造です。
一切の副資材を排したカーディガンのような作りではなく、あえて「キツさを感じさせない、ごく薄い肩パッド」を内蔵しています。リネンという自重のあるファブリックを美しく支えつつ、インナーとの重なり合いを崩さないため、肩甲骨から鎖骨にかけての頂点に極めて薄いクッションを挟むことで、生地の質量による負荷を面で分散させています。
リラックスしたドロップショルダーでありながら、着用時には決してだらしなく崩れない。骨格に完璧に寄り添うような黄金比のシルエットは、この計算し尽くされたパッドの厚みによって物理的に証明されています。
表地には極めて太い番手の糸で織り上げられたピュアリネンを採用。一般的な春夏用の薄弱な平織りシャツ地とは次元が異なり、指先で触れると、強靭なフラックスの繊維が交差する粗々しいネップの質感がダイレクトに伝わります。しかし、袖を通すと驚くほどしなやかに身体に沿います。これは、繊維長の極めて長い高品質な原草を厳選し、織機に限界までテンションをかけて高密度に打ち込んでいるためです。
この高密度な織組織がもたらすのは、着用者の動作に合わせて重力に従って大きくうねる力強いドレープと、摩擦に対する強烈な耐久性。
粗さのある生地表面は光を乱反射させ、インナーに合わせたシルクやコットンの光沢との間に強烈なコントラストを生み出します。1990年代特有の温かみを帯びたセージグリーンの色調も、現代の均一化された高速織機や化学染料では決して表現できない、経糸と緯糸の染料の浸透差が生み出した奇跡的な色彩のレイヤーです。
左胸に配置されたポケットは、上下の縁を細い共布で挟み込んだ両玉縁仕様を採用しています。
分厚く反発力の強いヘビーリネン生地に対して、ミリ単位の精緻な直線的切り込みを入れるこの仕様は、縫製時に極めて高度な張力コントロールを要求される職人技。
なぜ、容易なパッチポケットにしなかったのか。
それは、ノーカラーがもたらす胸元のフラットな視覚効果を阻害せず、インナーとのレイヤードを邪魔する野暮ったい厚みを徹底的に排除するための偏執的なまでのこだわりです。上下の極細の玉縁が生地の裂けを防ぐ強固なフレームとして機能し、ジャケットの顔である胸周りの完璧な平滑性を保っています。
腰元に設けられた左右のポケットには、ノーカラーの抜け感のあるデザインとは対照的な、重厚なフラップとボタンが取り付けられています。これは単なる実用機能にとどまりません。
厚みを持たせたフラップとボタン自体の重量が、身頃の下部に対する物理的な錘(おもり)として作用しているのです。この錘が前立てのラインを垂直方向に力強く引き下げ、首元から続く前下がりの直線をより鋭利に保ちます。インナーを見せるVゾーンの開きを常に理想的な角度で固定するための、力学的な装置として機能しているのです。
内部構造において、背中部分の裏地を大胆に排除した「背抜き」仕様を採用することで、リネン最大の武器である卓越した通気性を確保しています。
一方で、運動量の多い袖裏や身頃の前側には、木材パルプなどの天然素材を原料とするレーヨンを採用。レーヨンは吸湿性を持ちながら、極めて低い摩擦係数を誇ります。これはレイヤードを楽しむためのノーカラージャケットにおいて極めて重要視される点です。インナーに長袖のニットやシャツを着用した際にも生地同士の摩擦を極限まで削ぎ落とし、衣服が中で引っ張られてシルエットが崩れる現象を未然に防ぎます。
本個体がヴィンテージ市場において世界中の愛好家から熱狂的な支持を集める理由は、現代のアパレル産業における徹底的なコストカットの波の中では、これほどまでに強靭な原糸を贅沢に確保し、骨格に合わせた立体的なアイロンワークと縫製に熟練工の時間を割くことが、物理的にも経済的にも再現不可能となっているからです。
1993年という時代の転換点において、ヴェロニク・ニシャニアンが完成させたノーカラージャケット。
それは単に襟を無くしただけの奇抜なデザインではありません。
着用者が内側に何を重ねるかによって完成形が変化する「無限のレイヤード構造」を前提とし、衣服の重心、摩擦係数、そして視覚的な余白を力学的に計算し尽くした、極めて知的なパターンメイキングの結晶。
人間の装いという行為に新たなキャンバスを与えた、ワードローブの頂点に君臨すべき生きたアーカイブピースです。
■size(cm)
表記サイズ:52
肩幅/身幅/着丈/袖丈
■textile
Shell:Linen100%
Lining:Rayon100%
■model
■condition
内ポケットのボタンが欠損しておりますが、全体的に綺麗な状態です。
その他は画像をご確認下さいませ。
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